野村美術館で「野村得庵 近代数寄者たちとの交遊」展を拝見したあと、最寄りの東西線「蹴上」駅に向かって歩いていると、「金地院」が秋の特別観覧を行っていたので、寄ってみました。

金地院は、室町時代の応永年間(1394年〜1428年)に、大業徳基禅師が第四代・足利義持の帰依を得て京都・北山に開山したことに始まる禅宗寺院です。
そして、慶長10年(1605年)、徳川家康の信任が篤く、江戸幕府の幕政に参与して「黒衣の宰相」と呼ばれた以心崇伝によって現在の地に移され、南禅寺の塔頭として再興。

特別名勝に指定されている「鶴亀の庭園」は、寛永七年に小堀遠州が手掛けた庭として有名です。


鶴亀の庭の南西には、徳川家康の遺言による三つの東照宮のうちの一つがあります。


そして、方丈北側の小書院には、以心崇伝の依頼によって小堀遠州が改造した三畳台目の茶室「八窓席」があります。この茶室は、大徳寺孤篷庵、曼殊院の茶室とともに、京都三大名席の一つに数えられます。
茶室の隣室が、私が今回の特別展示で見たかった、長谷川等伯による水墨襖絵(四面)の「猿猴捉月図」(重文)です。
「猿猴捉月図」は、禅宗絵画で好まれた画題で、猿が水面に映った月を取ろうとしてついには溺死してしまうという中国の故事が由来です。
近年の寺院の特別観覧では、本物ではなく、レプリカ(印刷物)展示がよく見られますが、金地院では、ホンモノが近くで拝見できます。
この部屋には等伯の襖絵(六面)の水墨「老松図」もあるのですが、このときは、展覧会に出品のため、不在でした。
とはいえ、硬い筆でサッサッと掃いて表現した猿の毛描きは、硬質な画材を使いながら、極端にバサバサではなく、ゴワゴワでもなく、猿特有の“フワっ、パサっ”とした毛のニュアンスが再現されています。
手早く描いたであろう筆致が生むそれは、山林の奥深くに住む野猿の野性味あふれる毛並みを喚起させます。
猿の手の部分は漆黒の濃墨で表現され、ふと、若冲さんが水墨画で使用する濃墨と同じ雰囲気を感じました。
京生まれ、京育ちの若冲さんですから、等伯のこの絵を見ていた可能性は高いでしょう。
こういった先人の表現を通して、自身の水墨表現を追求していた若冲さんをつい、想像してしまいました。
そういえば、若冲さんの水墨作品で、水に映る月影に興味をもった子猿の手を掴んで、水面に近づけてあげる母猿の姿を描いた「猿猴捉月図」(米国・キンベル美術館)があります。
若冲さんが親子猿に向けた慈愛の念と、若冲さんらしいユーモアあふれる、見ていて心が暖かくなる作品です。
等伯の「猿猴捉月図」も、愛らしいテナガザルの姿からは、水に落ちてしまった猿を愚かと嘲る意味は持っておらず、ただただ、自然に生きる猿のたくましさ、愛らしさを描いているように思えます。
等伯と若冲さんの作品からは、生き物への愛を感じます。
さてさて。
等伯の襖がある方丈北側は、外界とを仕切るのは、なんと、襖のみなのです。
これには、びっくりしました。
部屋の外は幅のある廊下ですが、そこには雨戸はなく、雨風、雪などが吹き込みます。
廊下の先の坪庭は建物に囲まれているとはいえ、等伯の絵は、湿気の影響を直接受けるであろう環境に長らく置かれているとは。
美術館や博物館で、徹底した温湿度管理のもと保存・展示されているのとは対極にあります。
時代劇やアニメ「日本昔ばなし」で、襖一枚開けると外、という情景は描かれていたので、昔はそのような環境は普通だったのは頭では理解していましたが、等伯のあの名品でも、そのようなことがありうるとは夢にも思っていませんでした・・・。
本来の状態で保存するのも、一つの考えではありますが・・・。
この素晴らしい作品を、今後も何百年と継承していただけるように、切に願っております。

◎南禅寺塔頭 金地院
京都府京都市左京区南禅寺福地町86−12