伝統文化 ・芸術

大徳寺塔頭・黄梅院は天も地も緑の静寂世界

大徳寺三玄院での上田宗箇忌に参列した日、ちょうど、大徳寺のいくつかの塔頭が春の特別観覧を開催中でしたので、「黄梅院」と「興臨院」を拝見しました。

永禄5年(1561)、28歳の織田信長は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を伴って初めて上洛、秀吉を京都所司代に任じます。

そして、天文20年(1551)に没した父・信秀の追善菩提のために、秀吉に小庵「黄梅庵」の普請を命じ、開祖に大徳寺98世・春林宗俶を迎えて「黄梅庵」を建立します。
これが黄梅院の始まりです。

黄梅院の名は、中国禅宗の五祖・弘忍大満禅師(602〜675)ゆかりの地である中国の黄梅県破頭山東福寺に由来して名付けられました

天正10年(1582)6月1日、本能寺の変で信長が急逝、同年10 月15日に密葬されます。

その後、秀吉は黄梅庵を増築しますが、君主・信長の塔所としては小さいとの判断で信長の法名・総見院殿から名をとり、大徳寺山内に「総見院」を新たに創建して祀ります。

黄梅庵は、天正14年(1586)5月、秀吉によって本堂と唐門が改築され、天正17年(1589)には、普請奉行・小早川隆景のもと、鐘楼、客殿、庫裏(禅宗寺院の台所)などを改築落慶し、この年に「庵」を「院」に改めます。

この時の住持は、春林宗俶の法嗣で、小早川隆景や蒲生氏郷などと親交のあった大徳寺112世・玉仲宗琇(1522〜1605)。

鐘は1552年に加藤清正によって寄進され、朝鮮伝来の品とのことです。現在の鐘楼は益田玄播守によって建立されたものです。

本堂は、天正14年に豊臣秀吉の援助によって落慶。本瓦葺・入母屋造の建物で、禅宗特有の方丈建築。

昭和52年に400年ぶりの全面解体工事が行われました。

切妻造妻入・杮葺の庫裏は、禅宗寺院の庫裏現存する我が国最古のもので、重要文化財に指定されています。

院内には、織田家の墓所や、小早川隆景、蒲生氏郷などの墓塔があります。

表門から庫裡、唐門に至る前庭は、この時期は見上げるとモミジの新緑、地面にはスギゴケの緑が目に眩しく、天も地も、植物の生命エネルギーに満ちていました。

◎大徳寺 黄梅院
京都府京都市北区紫野大徳寺町83-1

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