明るくユーモア溢れる書画は当時も大人気

 

略歴
仙厓義梵(1750-1837)。江戸後期の臨済宗古月派の禅僧。
博多にある日本最古の禅寺・聖福寺の第百二十三世、第百二十五世住持として、疲弊していた名刹・聖福寺の復興に尽力。多くの弟子の教育にも力を注ぎ、博多における臨済禅の興隆に尽くす。
書画をよくし、六十二歳で住職の座を弟子の湛元に譲ると、隠居後は、得意の禅画を通して庶民に禅の教えを広める。そのユーモラスで楽しい禅画は広く人気を博し、気さくで正義感の強い性格とあいまって多くの人に愛され、「博多の仙厓さん」と慕われる。
一方、紫衣勧奨を三度辞退し生涯黒衣の僧を貫く潔さと、数々の反骨の逸話でも知られる。

 

義梵(1750-1837)。法諱は義梵、号は百堂、阿摩訶和尚、虚白、無法斎、退歩。

江戸時代の中期、寛延三年(1750)、美濃国武儀郡(現在の岐阜県関市)に、小作農の子として生まれる。十一歳の頃、地元の清泰寺・空印円虚に師事し得度・出家し、義梵の法名を得る。

明和五年(1768)の十九歳の春より行脚の途につき、武蔵国永田(現在の神奈川県横浜市)の東輝庵・月船禅慧のもとでさらに修行を重ねる。
天明元年(1781)、三十二歳の六月、師の月船禅慧が選化、これを契機に諸国行脚の旅に出る。

天明七年(1787)の冬、月船禅慧の同門であった大宰府の観世音寺・戒壇院の太室玄昭に西游を勧められ、翌年、日本最古の禅寺・聖福寺の第百二十二世住持・盤谷紹適に相見。
翌、寛政元年(1798)、四十歳で盤谷紹適の後を継ぎ、聖福寺第百二十三世住職となる。聖福寺は建文六年(1195)に宗から帰国した栄西が創建し、山門に「扶桑最初禅窟」の額を掲げる名刹であったが、仙厓の入住当時は疲弊が激しく、以降、伽藍の復興と弟子の協力に力を注ぐ。

寛政十年(1798)、聖福寺開基源頼朝六百回忌を執り行い、同十二年に聖福寺僧堂を再興。文化十年(1813)には開山栄西の六百回忌を行う。これらの活動に対して、本山妙心寺より瑞世の儀の勧奨(紫衣の勧奨)を受ける。

文化八年(1811)、六十二歳で住職の座を弟子の湛元に譲り、翌年、境内の虚白院に隠居。この間、太蔵経を三度も読破するほど研究熱心で、隠居後には文化十年(1813)に「百道三書」、文化十四年(1817)に「点眼薬」、ほか「触鼻羊」、「瞌睡余稿」などの多くの著書を残す。

現在確認できる最も早い作品は四十代後半の頃のものとされるが、最初は画題に禅の祖師たちの悟道体験のエピソードを描いた禅機図や祖師図、仏画などが中心であったが、六十二歳で隠居した後は宗教的なテーマ以外の風俗画や動物画、人物画、風景画といったい日常的な画題を含めて様々な画を描くようになる。

禅画の対象も、修行僧に対してという限定的なものから、広く一般の庶民へと広がり、その内容も、厳しい教え一辺倒ではなく、庶民の気持ちをくみながら、禅の教えに基づく人生の教訓的な内容のものが増えていく。

そして「博多の仙厓さん」と呼び親しまれた彼の隠居所・虚白院は、集会所のように老若男女が集う格好のたまり場になり、明るくユーモア溢れる、わかりやすく親しみやすいその絵を誰もが欲しがったという。

隠居後は旅を楽しみ、古物収集や愛石趣味に興じ、地誌・博物研究にいそしんだ悠悠自適な生活を送っていだが、晩年に及び、法嗣である湛元が藩の忌に触れ、藩命により聖福寺退任となる大事件が起こる。

この事件で湛元は罪を受けて大島流しに処され、天保七年(1836)八十七歳で仙厓は第百二十五世として聖福寺の住持に返り咲くことになる。

信頼して後事を託した弟子との離別は老いた仙厓にとって痛恨事であり、天保八年(1837)四月の湛元の島流しから五か月後の九月、病床につく。

同年十月七日、遷化。三度の紫衣勧奨を受けるもすべて辞退し、生涯黒衣の僧であることを誇りにし、日本最初の禅寺である名刹・聖福寺の住職として博多の地で後半生を過ごしたその人生を閉じる。享年八十八。