大胆で独創性あふれる画風で、師の応挙とともに人気

長沢芦雪(1754 - 1799)

伊藤若冲や円山応挙、池大雅などの画家が活躍した18世紀の京で人気を博した画家。円山応挙の一番弟子として師の画風に通じた絵を描くとともに、応挙風の枠にとらわれない、自由で大胆な画風が特徴。

丹波篠山藩士の子として生まれ、10代半ば頃から絵を描き、20代半ば頃から、当時の京の花形絵師・円山応挙の門下で腕を磨く。応挙の写実力や表現力をマスターし、応挙様式の作品を描くが、オリジナルの表現や技法も追求し、後に応挙の画風から離れ、自由で大胆な独自の画風を確立する。

芦雪にとっての転機は、天明6年(1786)10月から翌年2月までの南紀での滞在。
応挙と若い頃から親交があった無量寺の住職・文保愚海が、応挙に襖の揮毫を依頼したが、多忙を極めた応挙の代わりに、芦雪が応挙の襖絵を持参し、無量寺に向かったという。
南紀滞在中は、無量寺や草堂寺、成就寺などの本堂を飾る障壁画をのびのびとした大胆な構図と自由な表現で描き、多くの傑作を現在に残す。

京に戻って約一年後、天明8年(1788)に起こった天明の大火では一時、京を離れ、奈良に滞在。現在、薬師寺が所有する襖絵制作を行ったとみられる。
寛政2年(1790)には、天明の大火で失った御所の襖絵制作に応挙一門として参加。翌年には妙法院門跡の襖絵を制作するなど、大画面の大作に次々と取り組む。

芦雪にはさまざまな伝説があり、応挙に3回破門されたとか、応挙がなくなった後の法要で、同じく応挙の弟子で、先に来ていた呉春が上席に座っているのを見て、怒鳴ったなど、横柄で無礼な人物として語られること多々あった。

そのため、寛政11年(1799)、46歳で滞在先の大阪に客遊中に亡くなると、その死因も妬みや恨みで毒殺された説がささやかれるほどである。
しかし、芦雪毒薬説は大正から昭和にかけて活躍した学者の相見香雨の『蘆雪物語』に書かれたもので、晩年の奔放で荒々しくみえる筆使いなどから、このような芦雪像が創作された可能性が高いという。

実際、数は少ないが、残された芦雪の手紙の内容からは、丁寧で腰が低く、絵の注文主に誠実に対応する様子が伺われる。
また、小動物や子供など小さきもの、幼きものを描いた数々の作品からは、それらへの慈愛に満ちた眼差しが感じられる。

残された作品は正直である。純粋に絵を描くことが好きで、常に新しい表現や技法を追求し、最期まで意欲的に描いた画家。それが、芦雪の本当の姿ではないだろうか。

若くして亡くなることは、生きていればたどり着く画の境地を見届けることができない。しかし、戦火をくぐり抜け、現在、私たちの前に存在する、芦雪の貴重な傑作の数々を堪能できる幸せに感謝したい。