大慧禅師が大悟したという禅語を、山岡鉄舟が力強く、伸びやかに書く

 

鉄舟らしい、力強く、伸びやかな筆致で書かれたた五言二句二行。
「薫風自南来 殿閣生微涼」。

この語の由来は、唐の第17代皇帝・文宗(827〜840年)が作った句までさかのぼります。

人皆苦炎熱 我愛夏日長

人は皆炎熱に苦しむ。我は夏日の長き事を愛す。
(世の大半の人々は、夏の茹だるような暑さを嫌がるが、私は夏の暑くて長い一日をこよなく愛している)

これを受けて、同時代の政治家で書家の柳公権(778〜865年)が続けて、転結の句を作り、一遍の詩にしました。

薫風自南来 殿閣生微涼

薫風自南来、
殿閣微涼を生ず。
(暑いとはいえ、林や庭を抜けて宮殿に南風の風がそよぎ、清々しい清涼感をもたらしてくれる。その心地よい気分はむしろ夏でなければ味わうことはでない)

夏の暑さと、宮殿を通り過ぎる爽やかな風。
その対比がおもしろく、情景が浮かびます。

作詩からおよそ200年後。宋代の士大夫で文学者の蘇東坡(蘇軾/1036〜1101)は、“為政者として、庶民への思いやりがない”と、この詩をけなします。

つまり、風も通らない小さな家で寝起きし、炎天下のもと、働かなくてはならない庶民の苦しさに思いを馳せず、日照の長い夏の日々を、風の通るひろびろとした宮中で遊んで暮らす皇帝の詩だと。

そして、蘇東坡は次のような詩をつくります。

一爲居所移 苦樂永相忘 願言均此施 淸陰分四方

一たび居の為に移され、苦楽永く相忘る。願わくは言わん。此の施を均しくして、清陰を四方に分かたんことを。
(皇帝は、広く快適な宮殿に暮らすうちに、世の民が炎熱のなか、苦しんでいることに気づかない。どうか、人々に思いを寄せ、「薫風自南来、殿閣微涼を生ず。」のような暮らしを分かち与えて欲しい)

立場や考え方の違いによって、同じ句でも受け取り方の違いが生じるのは、興味深いですね。

さて。
「薫風自南来 殿閣生微涼」が禅語として用いられた契機は、公案を用いて悟りに至る「看話禅」(公案禅)の大成者として知られる、宋代の臨済僧・大慧禅師が、この語を聞いて大悟したとされたことによります。

もしかしたら、この書を掛けて眺めていると、いつか、大慧禅師のように悟りが開けるかもしれませんね。

ちなみに、この書を書いた山岡鉄舟(1836〜1888)は、幕末から明治にかけて、幕臣、剣術家、官僚、政治家として活躍した人物。

明治の廃仏毀釈の際に日本の禅宗を守るために奔走した相国寺の住持・荻野独園や、天竜寺の由理滴水、円覚寺の今北洪川などに参じ、後年は、滴水禅師から印可を与えられるなど、禅に深く傾倒し、明治初期の禅宗を支える存在でもありました。

そんな鉄舟が書く、大慧禅師にちなんだ「薫風自南来 殿閣生微涼」。
ここに、鉄舟はどのような情景を想い、どのような思想を感じたのでしょうか。

作家名 山岡鉄舟
作品名 薫風自南来 殿閣生微涼
時代 江戸時代〜明治時代
紙本墨書
本紙寸法 137.2 ✕ 51.5 cm
総丈 190.0 ✕ 55.0 cm
印章 「山岡高歩」「鐵舟」
付属 合わせ箱
価格 お問い合わせください

 

お問い合わせはこちら