柴野栗山による自作の漢詩

近世後期から明治時代の日本では、儒学や漢詩文が盛んになりました。
そのきっかけは、「寛政改革」とよばれる、江戸中期に老中・松平定信が主導して行われた幕政改革にあります。
この改革のなかで、学問関連については、朱子学を幕府公認の学問と定めて、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所での陽明学・古学の講義を禁止した「寛政異学の禁」が有名です。
一方、幕臣たちの人生観や生活に大きく影響を与えたのが、寛政年間に初めて本格的に実施された幕臣対象の筆記試験「学問吟味」でした。
そして、幕臣の学力を測る指針として、儒学の講釈と漢文の作文の能力が重視されることになったのですが、この学問吟味の構想と実施の中心人物が柴野栗山でした。

11代将軍・徳川家斉の下で老中・松平定信を補佐し、幕臣の持つべき素養として漢詩文制作に励む契機を作った栗山自身は、どのような詩を作ったのでしょうか。

その一旦が伺える好例が、ここでご紹介する漢詩です。

讀書過午夜
思茶下竹床
親添〓爐火(〓=日の下に折)
閑聴蟹眼湯

讀書過午夜
窈窕入理窟
超待一杯茶
開窓進山月

この詩は、栗山の唯一の詩集「栗山堂詩集」(全四巻)にも収められています。

蟹眼(’茶釜の湯が煮える)の音だけが聞こえる静かな空間で、
囲炉裏の火の側で、夜半まで読書する様子が目に浮かびます。

ビジュアルイメージがとても湧く詩ですね。

栗山作の漢詩を堪能できる貴重な作品です。
どうぞ、ご愛好ください。

 

作家名 柴野栗山
作品名 五言詩
時代 江戸時代
紙本墨書
本紙寸法 117.0 ✕ 31.5 cm
総丈 196.5 ✕ 42.0 cm
印章 「柴邦彦印」
付属 合わせ箱
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◎柴野栗山(しばの・りつざん)
1736年(元文元)〜1807年(文化4)。
江戸時代の儒学者・文人。名は邦彦、字は彦輔。讃岐国(現在の香川県)生まれ。寛政の三博士の一人として知られる。
讃岐国三木郡牟礼村で誕生。1748年(延元年)に高松藩の儒学者・後藤芝山の元へ通い、儒学を習う。1753(宝暦3年)に中村文輔と共に、江戸に赴き、湯島聖堂で学問を学ぶ。
湯島聖堂の学習を終えると、1765年(明和2年)に高橋図南から国学を中心に学問を学び、1767年(明和4)に徳島藩に儒学者として仕え、翌年にには徳島藩主・蜂須賀重喜と共に江戸に再度赴く。
江戸に着いた後、1776年(安永5)に徳島藩当主の侍読に就任。1787年(天明7年)には、江戸幕府老中・松平定信より幕府に仕えることを勧められ、以後、幕府に仕え、寛政の改革に伴う「寛政異学の禁」を指導するなどによって評価が高まり、1790年(寛政2)に湯島聖堂の最高責任者となる。