数々の超絶技法を生み出し、表現の可能性を追求した芸術家

名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。
正徳六年(1716)、京都の青物問屋「桝源」に生まれ、裕福な商家の長男として育つ。

元文三年(1738)、若冲が二十三歳の時、父の桝屋源左衛門が没したため、四代目桝屋源左衛門として家督を継ぐ。
元来、絵を描くことを好み、隠遁し作画三昧の生活を望みながらも十七年間、家業に従事。宝暦五年(1755)、四十歳の時に家督を弟・宗厳に譲り、画業に専念する。
伊藤家の家宗は浄土宗であるが、早くから「居士」と名乗り、禅に帰依。妻帯せず、独身を貫く。

絵を学ぶようになったのは二十代の終わり頃と推測される。最初に師事した画家について、若冲の最も良き理解者であった相国寺の僧・大典顕常(梅荘顕常)は、若冲が五十一歳の時に相国寺に建立した寿蔵(生存中に建てる墓)「若冲居士寿蔵碣銘」の碑文で「狩野氏の技を為す者」と記している。
これについては、大阪で活躍した大岡春卜や、近年では京狩野鶴沢派の青木左衛門言明という写生を得意とした画家が挙げられている。

画家に師事するだけでは飽き足らず、京都の寺院に伝わる中国の宋・元・明時代の古い絵画や清代の新しい写実的な花鳥画風などを模写。莫大な量の模写を続けるうちに、「宋元の名手と競ったところで優劣は明らか。そのうえ、彼らが描いたものを自分が又写ししたのでは、差は隔たる一方である」と模写の限界や本当の“物”を見て描くことの重要性に気付く。そこで、日常的に観察できる対象として「鶏」を選び、鶏を数十羽、庭に飼い、その形態や動態、羽根の色などの忠実な写生を続ける。ここから“鶏”は若冲が生涯を通じて描き続ける重要な画題となる。

家業から解放され二年後の宝暦七年(1757)頃、若冲の代表作の一つとなる「動植綵絵」に着手する。
当時手に入れることのできる最高級の画材を使い、動物や植物、鳥や魚、虫など生きとし生けるものを画題にしたこの作品群を、若冲は「花鳥画三十三幅を制って後世に遺したい」と望んだという。

制作を始めて数年後の宝暦十年(1760)の頃、大典顕常(梅荘顕常)は若冲のアトリエで制作中の動植綵絵を拝見する。この時すでに十五幅が完成(うち三幅は現存せず)。

同、宝暦十年の十二月、当時の文人僧として名高い黄檗僧・売茶翁(月海元昭)が若冲のアトリエを訪問、若冲の作品に感動し、「丹青活手妙神通」の一行書を贈る。
これに感銘した若冲はこの七文字を印刻し、以降、「動植綵絵」の「蓮池遊魚図」「池辺群虫図」「牡丹小禽図」ほか、いくつかの作品に捺す。

明和二年(1765)九月二十九日、五十歳の時に、「動植綵絵」二十四幅を「釈迦如来」「普賢菩薩」「文殊菩薩」三幅とともに相国寺に寄進する。

寄進の十日前、独身の若冲が後嗣と頼んでいた末弟・宗寂が亡くなる。翌、明和三年(1766)、相国寺の塔頭・松鷗庵に寿蔵(生存中に建てる墓)を建てる。

明和六年(1769)六月、相国寺山門で行われる儀式「閣懺」にて、「動植綵絵」三十幅が相国寺の方丈室内に掛けられる。方丈中の間の北側に釈迦三尊像を懸け、左右に十五幅づつ、互いに対称になる図柄を選んで配列。
以降、毎年、閣懺の際に掛けられ、一般の人にも公開されるようになる。

翌、明和七年(1770)、動植綵絵・三十幅すべてを相国寺に寄進。

「動植綵絵」の制作と同時に他の大作も手掛け、綵絵の制作開始から間もない宝暦九年(1759)に鹿苑寺大書院障壁画、全五十面を描く。
また、「動植綵絵」二十四幅の寄進前年の明和元年(1764)には四国・金刀比羅宮の奥書院障壁画を描く。

水墨画も精力的に描き、吸水性の良い画牋紙に淡墨の筆を重ねて塗り、にじんだ墨の面と面の間が混じり合わず白い筋が残る特性を生かした「筋目描き」の手法を習得、これを鳥の羽根や魚の鱗、花弁の重なりなどの表現に多用し、独自の絵画表現を展開する。

また版画制作にも果敢に挑み、新しい版画表現を開拓。明和四年(1767)、五十二歳の時に大典顕常(梅荘顕常)と共に淀川を下り、大坂に遊覧した折の情景を石摺の技法で表した拓版画「乗興舟」や、合羽刷りと馬連による木版摺りを併用して鮮やかな色彩を表現した多色摺版画「花鳥版画」(明和八年/1771)などを制作する。

若冲の名声は高まり、若冲五十三歳にあたる明和五年(1768)に発行された、京都の有名な学者・書家・画家などの名を録した名士録『平安人物志』では、「画家」の部で収載画家十六人中、大西酔月、円山応挙に次ぐ三番目に登場。若冲の次に池大雅、与謝蕪村と続く。

七年後に第二弾として発行された『平安人物志』安永四年(1775)版では、六十歳の若冲は、収載画家二十人中、応挙についで二番目に登場、若冲の次に蕪村が続く。この安永四年版では、呉春、曾我蕭白が初登場。

第三弾の天明二年(1782)版、若冲六十七歳の時には、収載画家二十九人中、応挙についで二番目に登場、三番目に蕪村が続く。この版で岸駒や長澤芦雪が登場している。

動植綵絵の制作後の五十代後半、この時期の若冲を知る記録として近年知られた『京都錦小路青物市場記録』(明和八年十二月二十二日~明和九年二月二十九日/明和九年六月十日~安永三年九月三十日)には、このような記録が残っている。

高倉四条上ル町(帯屋町)と高倉錦小路上る町(貝屋町)の両町は、明和八年(1771)十二月より始まる、東町奉行所および西町奉行所の度重なる市場差し止め工作や、市場停止の問題を抱えていた。

当時、錦高倉四町の帯屋町年寄役を務めていた若冲は、市場再開に向けての関係各位との調整、願書提出、役所との交渉などに奔走。
ほぼ二年八か月をかけてこの争議を解決し、錦高倉市場の再開に尽力した。

安永二年(1773)、若冲五十八歳の時、宇治の黄檗山萬福寺を訪れ、二十世・伯珣照浩に会う。自身の画歴や画作、展望などについて奮然と語り、初対面の伯珣に道号と僧衣を乞う。これに伯珣は快諾、「革叟」の道号を若冲に与える。

安永(1772-1781)中ば、六十代の頃より、伏見深草の黄檗宗寺院・石峯寺に通い、寺内の裏山に、釈迦如来釈迦像を中心とする十大弟子、五百羅漢などの石像を建立。
若冲が下絵を描き、それを石工に彫らせた石仏群は評判となり、天明六年(1786)刊行の『拾遺都名所図会』に「石像五百羅漢」として記載される。

また、天明八年(1788)一月二十八日には儒学者・皆川淇園が円山応挙と呉春の案内で石峯寺を訪れ、石像を見た後、若冲と談話する。

淇園の訪問から二日後の一月三十日、「天明の大火」といわれる京都大火災が起こり、市街地の大半が焼失。七十二歳の若冲は、桝屋の店舗に近くにあった住居や鴨川の西岸にあったアトリエ「心遠館」をこの大火災によって失う。

火災によって焼け出された若冲は、石峯寺の門前に居を構え、以降亡くなるまでここに暮らす。初めて生活の糧に絵を描く必要が生じ、この時期、略筆の水墨画を多数描く。

七十代の傑作として、「七十五歳画」の款記のある大阪・西福寺の「仙人掌群鶏図」「蓮池図」や、石峯寺に近い黄檗宗海宝寺の「群鶏図障壁画」(現京都国立博物館)がある。

八十代になってもなお新たな表現力に挑み、創作意欲溢れる作品を描く。この時期の代表作として「八十二歳画」の款記のある「象と鯨図屏風」(MIHO MUSEUM)などがある。
寛政十二年(1800)九月十日、画業に捧げたその人生を終える。享年八十五。