17世紀の日本に中国の最新禅を伝え、黄檗山萬福寺を開山した隠元による名号

宇治・黄檗山萬福寺を開創し、大陸の異国情緒あふれる書画や器物、料理、煎茶などの黄檗文化・美術を日本に伝えた、日本黄檗宗の開祖・隠元。

隠元禅師にとって観音は特別な存在で、二十三歳の時、南海普陀山で観音大士を禮して出家を発心したとされます。
特に観音菩薩を信仰しており、観音像への賛や、それにまつわる詩偈が多数、残されています。

隠元の名号書には、「南無観世音菩薩」と「観世音菩薩」の二種があり、信者へ与えたものが各地に遺存していますが、この作品もその一つでしょう。

当時、中国明代の文化の中心であった江南一帯に流行していた書画様式をよく表した、明るくのびやかな筆致で「南無観世音菩薩 隠元書」と書かれています。

隠元禅師は、同じく黄檗僧である木庵、即非で「黄檗の三筆」といわれ、その書は高い人気を誇ります。大陸的なおおらかさを感じさせるこの書は、今見ても新鮮でモダンな印象を受けます。

ましてや17世紀の江戸時代の人たちにとっては、驚愕と大きな関心をもって受け止められたことでしょう。 そんなことを想像しながら、いつまでも眺めていたくなる作品です。

作家名 隠元隆琦(いんげんりゅうき)
作品名 名号 南無観世音菩薩
時代 江戸時代(17世紀)
紙本墨書
本紙寸法 59.2 ✕ 19.5 cm
総丈 131.8 ✕ 31.2 cm
落款 隠元書
印章 「隆琦」(朱文方印)、「隠元之印」(白文袋印)、関防印「臨済正宗」(朱文楕円印)
付属 合箱
価格 売約済

 

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◎隠元隆琦(1592~1673)。
中国・福建福清生まれ。俗姓は林。
二十一歳の時に、早くから消息を絶っていた父親を探して浙江省方面に旅に出るも目的を果たせず、その足で観音霊場のある普陀山に赴く。その中の潮音洞に入り一年間、茶頭を務める。

二十八歳の時、母親が亡くなると出家を決意、万暦四十八年(1620)、二十九歳の時に地元の黄檗山萬福寺の艦源興寿に就いて出家、その後、名僧知識を求めて各地を遍歴する。

天啓四年(1624)、金栗山廣慧寺の密雲圓悟に参見、密雲のもとで修行。崇禎三年(1630)には密雲の黄檗山晋住に随待する。

崇禎六年(1633)、密雲の後を継いだ費隠の法を嗣ぎ、崇禎十年(1637)、四十六歳の時に萬福寺の住持となり、黄檗山の復興発展に尽力。宗衆雲集して一大禅林となる。

隠元の名声は日本にも及び、長崎・興福寺の住持・逸然性融から承応元年(1652)四月、一度目の招請状が来る。隠元は老齢を理由に辞退するも、同年八月、翌年三月、同年十一月と計四度にわたる招請についに応請、来日を決意する。

承応三年(1654)、獨言性聞、獨知性機、大眉性善など総勢二十名の弟子とともに長崎に着く。興福寺、続いて崇福寺に入る。以前より長崎に渡来していた中国僧は隠元の下に参じ、また隠元の来着を待って臨済・曹洞の僧侶百人近くが長崎に馳せ参じたという。

長崎で教化に努め、当初は三年で帰国する予定だったが、その意向とは別に、隠元を妙心寺に迎える運動が龍渓宗潜、禿翁妙周を中心に起こる。しかし、この運動に対し、妙心寺内に猛烈な反発が起こり、失敗に終わる。

龍渓たちの奔走により、明暦元年(1655)、龍渓の住持する摂津・普門寺に迎えられる。ここでも日本人僧侶が多く集まり、幕府は一日二百人以下となるよう規制したほどであった。

その後、龍渓らの斡旋により万治元年(1658)六十七歳の時、将軍・徳川家綱に謁見。翌年、京都近郊に一寺を建てさせるという幕府の意向が伝えられる。ここに至り、隠元はついに帰国を断念し、在留。一寺を建立して開山となり、仏法を日本に興隆する決心をする。

幕府より山城宇治郡大和田に土地が与えられ、寛文元年(1661)五月より新寺の創建が始まる。旧を忘れないという意味を込め、故郷の中国福建と同名の「黄檗山萬福寺」と名付け、同年閏八月二十九日、晋山する。
その後、伽藍の建立も順調に運び、法堂、浴堂も建ち、寛文三年(1663)、正月、法堂にて祝国開堂を行い、正式に黄檗宗開立となる。その後も伽藍、寮舎、仏像の整備が行われ、幕府からの寺領の寄進も行われる。

開山以降、全国各地に末寺が建立され、中国文化の受容と浸透の基盤を拡大。十八世紀中頃には、全国五十一か国に千以上の末寺ができるまでに。

萬福寺では、開山・隠元より二十一代・大成に至るまで、数代を除き、百十年以上もの間、中国からの渡来僧が住持をつとめた。
これにより開創当初の異国情緒豊かな環境が維持された。黄檗僧が持ち込んだ大陸の新しい文化は、書画、器物、料理、煎茶に至るまで、その影響は多方面にわたる。

鎖国体制下で海外との交渉が中国、朝鮮・オランダに限られ、中国文化との窓口が長崎一都市に限定されるなか、萬福寺は中国文化を伝える場所となり、当時の最先端の情報発信基地の役割も担うこととなる。

黄檗宗の特色である「唐様の書」は、広額・聯・寿章、詩偈などの形で示された書法や、中国明代の気風を受けた明るくのびやかな書風が一世を風靡し、中国僧、日本僧を問わず、黄檗僧の間に長く受け継がれた。
古来日本では、中国の伝統書風から離れた禅僧の書が「墨蹟」として珍重されてきたこともあり、隠元、木庵、即非の書は「黄檗の三筆」として特に珍重された。

日本の画家への黄檗の影響も大きく、池大雅は七歳の時に十二代住持・杲堂元昶の前で大字を書き、直々に「神童」と称され、それ以降、月海元昭(売茶翁)や悟心元明らと交遊を続けた。
また、黄檗画僧の海眼浄光(鶴亭)は木村兼葭堂や葛蛇石などの弟子を育て、伊藤若冲の画風形成にも影響を与えた。

隠元の下に、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依。 開山より三年後の、寛文四年(1664)、七十三歳の時に住持を木庵に譲り、山内の松隠堂に退隠。

寛文十三年(1673)、八十二歳を迎えた隠元は、死を予知し、身辺の整理を始める。
四月二日、後水尾法皇より大光晋照国師号を受け、翌三日、八十二歳で示寂。