中原南天棒(鄧州全忠)

豪放磊落で型破りな逸話は数知れず。力強く、気概に溢れ、しかもユーモア溢れる個性的な画賛が政治家・文人に広く支持された“明治の傑僧”。


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その人生

中原南天棒(鄧州全忠)(1839-1925)。法諱は全忠、道号は鄧州、室号は白崖窟。通称は南天棒、俗称は中原。白隠六世の法系で、明治期を代表する臨済宗の僧。 天保十年、肥前唐津の小笠原藩士・塩田家に生まれる。嘉永二年(1849)、十一歳で平戸・雄香寺の麗宗和尚について得度、以降、四書五経、漢詩、仏典、仏式作法に至るまで広く見識を広める。 十八歳の時、京都の円福寺で萬松老師に参禅。二十二歳の時に阿波の文常老師に参じる。二十五歳より久留米の梅林寺僧堂の羅山元磨のもとで修行し、天下の叢林を歴参した後、羅山の法を嗣ぐ。

三十一歳の時に山口・徳山の大乗寺に住持する。三十六歳の時より数年、各地の禅堂を巡り、積極的に法論を挑み、その名を世に知らしめる。 三十五歳の時、九州を巡歴中、百姓家の牛小屋のすみで見つけた南天の木で三尺五寸の警棒を作り、これを持ち歩き「道い得るも南天棒、道い得ざるも南天棒」と唱え未悟りの修行者を叱咤して、震え上がらせたという。「南天棒」の名の由来はここに因る。

四十七歳の時、妙心寺本山の命により東京の曹渓寺に東京選仏場を創設。翌年、市ヶ谷の道林寺に住し、五十三歳の時、宮城・松島の端厳寺に住する。 明治二十六年(1893)、五十五歳の時に、「派下の師家(僧堂を主宰し、悟達の修行僧に印可を与える資格を有する者)を本山の僧堂(禅宗寺院で僧が座禅修行する根本道場)に召集し、自ら師家となり、その見地・境涯を点検し、未在の者がいれば師家権を奪って黒染の衣と鉄棒一つで再行脚を命じる」ことを本山に提議。その検定問題として、潭海、無学、伽山、滴水、匡道、釣叟ら臨済宗各派の諸老師たちの協力を得て「南天棒宗匠検定法」を作成する。

臨済禅中興の祖・白隠慧鶴(1685-1768)下の正式の僧堂は、白隠の弟子・斯経が八幡の円福寺に僧堂を開き、「江湖道場」と称したことに始まり、「円福僧堂の師家は自己の法系に限らず、天下に名師を求めて師家を拝請する」と謳い、遍参・歴参の大切さを説く。 遍参修行の徹底により自ら叩き上げ鍛え上げた南天棒は、この本来目指すべき姿に反する禅界の現状に一石を投じる覚悟で、敢えて天下の師家に法戦を挑んだ一件であった。

六十四歳で兵庫・西宮の海清寺に住し、以降二十二年間は禅の弘法に邁進。七十歳の時に妙心寺第五八六世となる。 以降の活動も目覚ましく、全国三十三ヶ所の坐禅会を指導し、『臨済録講義』、『碧巌集講義』、『禅の極致』など十数冊の禅書を著作。参禅者は乃木希典、児玉源太郎、桂太郎、山岡鉄舟など幕末の幕臣や明治の名将をはじめ、僧俗を問わず三千人を数えた。 大正十年(1925)、八十五歳で示寂。

◇参考文献

  • ・『南天棒行脚録』(中原鄧州著/平河出版社)
  • ・『南天棒禅話』(中原鄧州著/平河出版社)
  • ・『ZENGA 帰ってきた禅画』(山下裕二監修/(展覧会図録)